無意味
ふと思った。この世に「意味の無いことなんて何一つとして無い」と。
ツイートだったり、会話の中だったり、あらゆる場面で「意味ねェ」とか「無意味」という言葉は使うが、本当に何にも意味の無いことなんて存在しない。
例えばの話だが、この記事を呼んでくれている人が読みながらウインクをしたとしよう。誰に向けたワケでもないし、誰が見ているワケでもない。一見すると無意味なように思えるが、それは脳から身体にしっかり命令が伝達出来ているという証明になる。
座る。立ち上がる。歩く。これらの動作は筋肉にとって影響はあるし、ゴロゴロしているだけの無駄とも思える時間も休息へと繋がる。
自然界で起こるあらゆる事象も、何も気に留めていなければ「そういうもんだ」という所に収まり、それ以上の発展は無い。
「意味がある」という事に気付けたからこそ、古代の人達は方角や季節や時間を見出だす事が出来たし、我々が当たり前のように感じている正座や誕生日なども、意味があると気付いて示した人がいるからこそ、現代では神話ではく「当たり前」になったのだ。
恋をするというのは、実際には心ではなく脳の判断によるものだが、使われる言葉や記号?はハート(♡)である。胸の高鳴りや緊張感は脳では無く心臓だと気付けたからこその表現であるし、♡の形も、人体を解剖してみて、右心房と左心房に分かれている事を知り、その形状を簡単に表すものとしてハート(♡)の形(記号?表現?)が生まれたのかも知れない。
普遍的な真実など存在しないという事が普遍的真実…と言ったところだろうか。難し過ぎて自分でも何を言ってるのかよく分からない状態だが…
とにかく「無意味」な事など無いのではないか?という自分なりの答えに、一人で酒を飲みながら到達した気がする。
人によってある「癖」も、人から見ると鬱陶しく感じる無意味な行動なのかも知れないが、本人としては無意識にやってしまう心を落ち着ける為の行動なのかも知れないし、その動きによって心理的に人の感情を探る事も出来る。
長々と述べたが、なんしか「無意味」な事はこの世に存在しないだろう、という事が言いたいワケだ。
勘違いしないでほしいのは、無意味と無駄は違うということ。一人ジャンケンとか、両手がしっかり動かせるという認識や証明にはなるので無意味ではないが、やっている事は恐らく「無駄」である。
それで何かしらの芸がついたり、アイデアが閃いたりはするかも知れないので尚更無意味ではないと思うが、何も考えずに一人ジャンケンなんてしてたら、そりゃ無駄だろう。端から見たら「単なる危ない奴」に見えてもおかしくないからな…