YASさん ~The World~

デザインから日常から~

生きている証拠(?)として、久しぶりに記事を書きます。これに関しては今思った事ではなく、前々からずっと思っていた事なんですけど、改めて思い出したのでこの機会に。

以前、とある番組で「愛」についての議論があり、その中で「恋と愛の違いは、相手の嫌な部分すらも受け入れる(好きになる)」事だと言ってました(私はTVは観ないので、あくまでニュース記事として目にしただけですけど)。

Twitter上ではよくある事なんですが、その人の思う個人的な感情を、あたかもそれが一般的で当たり前であるかのように言うのは本当にやめてほしい。

その人の嫌いな部分も好きになる事が愛だと言うなら、私は愛なんて欲しくないし、きっと一生理解も出来ません。
精神論者か心理学者か知らんけど、それは個人的な「理想」に過ぎないだろうと。愛とかじゃなく、ただその人個人の恋人や片想いの相手にそれを求めるだけだろうと。それを一般的に「愛とは」なんて言ってほしくない。






私自身、鬱病になりました。精神病棟に強制入院させられ、こう言っちゃなんですが頭のおかしい連中との共同生活もさせられました。自殺未遂もしました。

そんな私が思う愛とは「委ねる」事です。お互いに。そこには理解も共感も許諾も信頼も全てある。その上で、お互いがお互いに身体も気持ちも「委ねる」事が愛だと思います。

まァあくまで個人的にです。しかし、幼少期から親の愛すらも受けられず、人には嘘を付かれ、叱責され、否定され拒否され反対され、人間不信になり、対人恐怖症にもなった私が提唱する「愛とは」です。

相手の嫌いな部分を好きになる事が愛?
それが畏怖や尊敬なら分かるけど、愛じゃねェだろ。結局は自分の全てを受け入れてほしいっていう、鬱になった俺よりも利己的な意見でしかねェだろ。嫌いな部分なんて好きになれるハズがない。それは妥協や諦めや。愛なんかじゃない。

「注意や指摘」と「否定や反対」は似ているようで全く違う。





「委ねる」っていうのは、言わばSEXに近いこと。気持ちや感情は勿論、私生活での言動なんかも、受け入れる側と受け入れてほしい側、双方がそこに安らぎや快楽を求める事が出来る事が愛だと思う。

本当にSEXで例えるのなら、レ◯プは愛か?
「嫌いな部分すらも好きになってほしい」という事が本当に愛なら、そいつの言っている事は「レ◯プだとしても受け止めろ」って言うてる事と一緒だろ。そんなもんが愛なワケがないだろ。馬鹿も休み休み言え。






「委ねる」って言うのはそれとは違う。
例え相手に何があっても、言い換えれば「添い遂げる覚悟」の事や。それが愛だと思う。

相手がボケようと、車椅子生活になろうと、俺みたいに自殺を決行しようと、委ねる事が「愛」だと思う。本当にそれがあったとしたのなら、きっと俺は自殺なんてしようとしていない。

まァ人それぞれ考え方は違う。人によって「愛」の形は違うけど、私にとっては一言で「委ねる」という事がなによりの表現だと思う。